特集 13 プロフェッショナリズムの共鳴。信頼を資産に変える「ひと」の力 。

Vol. 01

売ることが、全てだと思っていた。10年後の『安らぎ』を育てるプロフェッショナリズム

不動産営業、と聞いて、どんな人を想像するか。押しが強い。数字に厳しい。物件を売ったら、次の客へ。そういうイメージを持っている人は、少なくないと思う。業界の外にいれば特に。そしてその業界に、自分が入ろうとしているなら、なおさら。

これは、そのイメージが少しずつ変わっていった、一年間の話だ。

春 ——配属

なぜ、お客様の家族の話をするのか

森田葵は、4月に不動産会社に入社した。営業職として、だ。就活のとき、親に「大丈夫なの」と言われた。友人には「不動産って、なんか怖くない?」と言われた。葵自身も、正直なところ、よくわかっていなかった。ただ、「人と話す仕事がしたい」という気持ちだけが、はっきりしていた。

辞令はレジデンシャル営業部。研修が終わって最初の週、葵は先輩社員の橘誠一(入社8年目)に同行した。その日の商談の相手は、30代の男性。不動産投資を検討しているという。

橘は物件の説明をひととおりした後、唐突にこう聞いた。「ご家族の将来を、どんなふうに考えていますか」

男性は少し驚いた顔をした。葵も驚いた。物件の話をしに来ているのに、なぜ家族の話になるのか。その接続が、葵にはわからなかった。

帰り道、葵は橘に聞いた。「あの質問、どういう意図ですか」

橘は少し間を置いてから言った。「お客様が何を守りたいかを知らないと、何を提案すべきかわからないから」

それだけだった。

簡単に言うけれど、と葵は思った。その言葉が橘の口から自然に出てくるまでに、何があったのだろう。そこまでは、まだ聞けなかった。葵は、うまく飲み込めないまま、その日を終えた。

夏 ——葛藤

売れた瞬間に終わる、とはどういうことか

2ヶ月が経った。葵は少しずつ商談に入れるようになっていた。数字の話、立地の説明、利回りの計算——研修で学んだことが、少しずつ口から出てくるようになった。

ある夜、葵は自分の商談を振り返っていて、気づいたことがあった。自分は、物件を「売ろうと」して話している。間違いではないかもしれない。営業だから。でも、橘と自分の商談が、根本的に何か違う気がした。葵が物件の「良さ」を伝えようとしているとき、橘はお客様の「状況」を理解しようとしている。同じ商談の場に座っているのに、向いている方向が違う。

葵は橘に、そのことを話した。橘はしばらく考えてから言った。「私も、最初はそうでした」

意外だった。橘が「最初はそうだった」と言うとは、思っていなかった。「売ることを目標にすると、売れた瞬間に終わるんです。でも、お客様の状況を理解することを目標にすると、売れた後も続く。時間がかかって、気づきました」

葵は何も言えなかった。否定でも肯定でもなく、ただ、何かが少し動いた気がした。

橘の「最初」とは、どんな時間だったのだろう。何がきっかけで、向いている方向が変わったのだろう。そのことを、葵はまだ知らなかった。知りたいとは思いながら、聞けないままでいた。

その夜、布団の中で葵は考えた。「売れた瞬間に終わる」——その言葉が、頭から離れなかった。自分が理想としていた「営業」の姿が、少しずつ輪郭を変えていく感覚があった。でも、どう変わればいいのか、まだわからなかった。暑い夜だった。

秋 ——転換

タイミングを待つことが、なぜ営業なのか

その年の秋、葵は一人で商談に入れるようになっていた。

数ヶ月前から話していたお客様——40代の女性、木村さん——から電話があった。「やっぱり、今回は見送ります」

葵の中で、正直に言えば、「もう少しだったのに」という気持ちが動いた。数字が頭をよぎった。

でも電話口で葵が言ったのは、こうだった。「わかりました。もし何か状況が変わったとき、また話しかけてください。木村さんのタイミングで」

電話を切ってから、葵は自分が言った言葉を、静かに反芻した。自分で選んで、言っていた。「売りたい気持ち」はあった。でも、それより先に、「木村さんにとって今が正しいタイミングかどうか」という問いが、自然に来ていた。いつからそうなったのか、葵にはわからなかった。ただ、そうなっていた。

ふと思った。橘は一度も、葵をせかさなかった。商談の数を急かすことも、結果を問い詰めることも、なかった。それがいつの間にか、葵のお客様への接し方に、滲み出ていたのかもしれない。

窓の外では、銀杏がゆっくりと色を変えていた。

冬 ——理解

関わり続けることが、なぜ信頼になるのか

年が明けた頃、橘と二人でオーナーの元を訪ねた。

中野房子さん、60代。橘が6年間、担当している方だ。玄関を開けた中野さんは「橘さん、また来てくれたの」と言った。

その「また」という言葉の重さを、葵はそのとき初めて、ちゃんと受け取った気がした。6年間、ずっと来ていた。売った後も、点検のたびに、何かあるたびに。その積み重ねが、あの一言になっていた。

橘は修繕計画の話をした。次の点検のタイミング、費用の見通し、入居率の推移。数字を並べるというより、一緒に考えるような話し方だった。中野さんは時折うなずきながら、「それで、橘さんはどう思う?」と聞いた。

帰り道、葵は橘に言った。「中野さん、本当に信頼していますね」

橘はしばらく歩いてから、こう答えた。「一回の商談より、関わり続けることの方が、伝わるものがある。それだけだと思います。……管理部門がちゃんといる会社じゃないと、私のこの仕事は成立しないんですけどね」

葵はその言葉を、手帳に書かなかった。書かなくても、もう残ると思ったから。

なぜ橘は、6年間関わり続けられるのか。「それだけ」と橘は言うけれど、その「それだけ」の中に、葵にはまだ見えていないものがある気がした。冬の空は、高く澄んでいた。

春、もう一度 ——喜び

言葉にならないものが、いちばん深いところに残る

年が明けて、葵は2年目を迎えた。

桜が咲き始めた頃、木村さんから連絡が来た。「やっぱり、動いてみようと思って」

葵は電話を切ってから、少しだけ笑った。売れた、という気持ちではなかった。木村さんのタイミングが来た、という気持ちだった。

最初に持っていた「不動産営業」のイメージは、今も完全には消えていない。業界の全てが変わったわけではないことも、1年で少しわかった。

でも葵の中で、変わったことがある。「売ること」は、仕事の入口だ。その先に、お客様の暮らしがある。資産がある。家族の時間がある。それと長く関わっていくことが、仕事の本体だ——1年をかけて、じわじわと、そう感じるようになっていた。誰かに教わったというより、現場の時間が、そう教えてくれた。

橘の「最初」がどんな時間だったか、葵はまだ聞いていない。橘が6年間、どんな気持ちで中野さんのもとを訪ねてきたか、まだ知らない。橘が葵を一度もせかさなかった理由も、まだ言葉では受け取っていない。

それらは、これから聞く話だ。

窓の外に、また桜が咲いている。去年と同じ桜なのに、今年は少し違って見える。葵にはまだ、その理由をうまく言葉にできない。でも、それでいいと思っている。言葉にならないものが、いちばん深いところに残るから。