呼ばれた日、そして気づいた日
「仕組みがある場所で、働くということ」
内部監査、と聞いて、どんな場面を想像するか。
書類を抱えた担当者が、部署をまわって問題を探している。何かが見つかれば、報告される。責任を問われる。そういうイメージを持っている人は、少なくないと思う。社内にそういう部署があると知っていても、自分とは遠い話だと思っている人も、多いかもしれない。
しかし内部監査は、そのイメージとは少し違う。
これは、そのことに気づいた、3日間の話だ。

場面① 身構えた午後
内部監査チームから連絡が来たのは、午後の商談が終わった直後だった。
「村上さん、少しお時間をいただけますか。明日の午前中、ご都合はいかがでしょうか」
入社3年目の村上遼は、メッセージを読んで、一瞬止まった。内部監査。その言葉の響きが、どこかひっかかった。呼び出し、という感じがした。何かやらかしたか。見落としがあったか。先月の案件を頭の中で素早く検索した。
特に何も出てこなかった。それが、かえって不安だった。
思い当たることがあれば、まだ対処のしようがある。原因がわかれば、謝り方も考えられる。でも何も出てこないということは、自分が気づいていないところで何かあったということかもしれない。気づいていないということは、それがどれくらいの問題なのかも、わからないということだ。遼はメッセージを二度読みした。文面は丁寧だった。でも丁寧すぎるくらい丁寧な文章というのは、ときどき、かえって怖い。
夕方、同じフロアの先輩、坂本さんのデスクに立ち寄った。
「内部監査って、どういう人たちですか」
坂本さんは少し考えてから言った。「うーん、なんか、チェックしに来る人たちじゃないの。書類とか業務とか、問題ないか確認するやつ」
「怖いですか」
「呼ばれたことないからわかんないけど」と坂本さんは笑った。「でも呼ばれる人って、何かあった人じゃないの、普通」
普通そうなのか、と遼は思った。坂本さんのデスクを離れながら、胃のあたりがすこし重くなった。
コンビニに寄って帰った。レジの前で何を買うか考えながら、頭の片隅にはまだそのことがあった。内部監査。明日の午前中。何かあった人。坂本さんの言葉が、ループしていた。
その夜、遼はなかなか眠れなかった。天井を見ながら、先月の業務を順番に思い返した。書類の不備。説明の不足。手順の抜け。いくつかの「かもしれない」が頭の中を行き来した。どれも決定的ではなかった。でも、決定的でないということは、「ない」とも言い切れない。
営業という仕事は、数字で評価される部分が大きい。契約が取れたか、お客様に満足してもらえたか。その軸で自分を見ていた。でも書類の正確さとか、手順の適切さとか、そういう部分は、自分ではなかなか判断しにくい。正しいと思ってやっていても、正しくないことがある。それが今回、あったのかもしれない。
3年やってきた。それなりに仕事も覚えてきた。お客様との関係も、少しずつ積み上げてきた。でも「わかっている」と思っているものの中に、実はわかっていないことが混じっている可能性がある。それを自分だけでは見つけられないことがある。その怖さが、この夜初めて、遼の中に生まれた気がした。
明日の午前中、何を聞かれるのだろう。

場面② 想像と違った朝
翌朝、会議室のドアを開けると、向かいに座っていたのは、入社数年に見える穏やかな顔の男性だった。
遼が想像していた雰囲気とは、全然違った。警察でも検察でも、厳しい査察官でもなかった。ノートパソコンを開いて、静かに待っていた。
「村上さん、お時間いただいてありがとうございます。内部監査チームの宮下です」
「よろしくお願いします」と遼は言った。背筋が少し伸びていた。
「先月の契約書の件で、一点確認させていただきたいことがあって」
宮下はパソコンの画面を少し遼の方に向けた。書類の記載に関することだった。お客様への説明時に確認が必要な手順があって、遼の書類にはその一点が抜けていた。
遼は、知らなかった。
「これ、私がやったんですか」と聞いた。声が少し小さくなっていた。
「はい。ただ、これはよくあることで、知らずにそうなってしまうケースがほとんどなんです」と宮下は言った。責める口調ではなかった。「悪意があってとか、手を抜いてとかではなくて、ただ知らなかっただけ、という方が多い。なのでお伝えしに来ました。次からこうしてもらえれば大丈夫です」
それだけだった。
宮下は具体的な手順を説明してくれた。何を、どのように確認するのか。なぜその手順が必要なのか。背景から説明してくれたので、単に「こうしてください」と言われるより、ずっと頭に入った。遼は途中からメモを取り始めた。
「ちなみに」と宮下は続けた。「こういった手順、研修で明示的に教わる機会がなかった方も多くて。知らなかった方が多いんです、実は」
それを聞いて、遼は少し肩の力が抜けた。自分だけが知らなかったわけではないのか。でも同時に、知らなかったことが問題にならないわけでもない。だから教えに来てくれた。
説明が終わったとき、遼は少し迷ってから聞いた。「これ、もし知らないままだったら、どうなっていたんですか」
宮下は少し考えてから答えた。「お客様への対応として不十分な状態が続くことになります。ただ、今回は気づいた段階で確認できたので、きちんと対応していただければそれで十分です」
「教えに来てくれなかったら、気づかなかったと思います」
「そのためにいるので」と宮下は言った。それ以上でも以下でもない、という口調だった。でもその一言が、遼には妙に残った。そのためにいる。自分たちの仕事の外側を見てくれる人が、この会社にはいる。
「何かご不明な点はありますか」
「いえ、わかりました。ありがとうございます」
会議室を出たとき、遼は少しの間、廊下に立っていた。
裁かれるのかと思っていた。でも実際は、教えてもらいに来た、という感じだった。罰則もなかった。怒られもしなかった。ただ、知らなかったことを、知ることができた。
エレベーターのボタンを押しながら、遼は思った。なんか、思ってたのと全然違った。

場面③ 説明しようとして詰まった昼
昼食の時間、同期の田中が隣に座ってきた。
「遼、今日内部監査に呼ばれてたじゃん。何だったの。怖くなかった」
田中の声には、好奇心と少しの心配が混ざっていた。同期の間では、内部監査に呼ばれた、という話はあまり聞いたことがなかった。
「全然怖くなかった」と遼は言った。
「え、そうなの。何されたの」
「書類の確認。記載の順番が、法律上こうしないといけないっていうのがあって、私それ知らなくてさ」
「で、怒られたの」
「怒られてない。教えてもらった感じ」
田中は少し意外そうな顔をした。「へえ。なんか警察みたいなイメージあったけど、違うんだ」
「俺もそう思ってた」と遼は言った。
でも、それ以上うまく説明できなかった。田中が「なんでそんなことしてくれるんだろうね」と言った。その問いが、遼には答えられなかった。
なんでだろう、と遼は思った。書類の記載順序なんて、知らなくても仕事はできる。少なくとも短期的には。それをわざわざ確認しに来て、丁寧に説明してくれる。その理由が、遼にはまだよくわからなかった。
「まあ、あった方がいいじゃん、そういう人たち」と田中は言って、定食の味噌汁を飲んだ。
そうだな、と遼は思った。でも、なぜあった方がいいのか。その理由を、遼はうまく言葉にできないままだった。

場面④ 腑に落ちた夜
その夜、遼はスマートフォンで少し調べてみた。内部監査とは何か。監査役とは何か。
難しい言葉がたくさん出てきた。独立性。リスクベース。コンプライアンス。ガバナンス。最初はよくわからなかった。でも読み進めていくうちに、少しずつ輪郭が見えてきた。
内部監査というのは、会社の外からではなく、内側から健康状態を確認する仕組みだ。経営が向かっている方向に対して、足元に問題がないかを確認する。問題があれば、摘発するためではなく、直すために報告する。その結果をどう改善するかは、現場の人間が自分たちで考えて決める。
遼は午前中の会議室を思い出した。宮下が言っていた言葉——「知らないままだと困ることになるので、お伝えしに来ました」。
あれは、遼のための言葉だった。でも同時に、会社のための言葉でもあった。遼が知らないまま同じことを続ければ、いつかもっと大きな問題になったかもしれない。それを、早いうちに教えてくれた。それが宮下の仕事だった。
健康診断みたいなものかな、と遼は思った。
体の中に何か問題があっても、自覚症状がなければ気づかない。気づかないまま放置すれば、大事になる。でも早めに検査して教えてもらえれば、対処できる。怖いのは病気そのものじゃなくて、気づかないことだ。
会社も同じかもしれない。業務に集中しているほど、自分の業務の外側が見えにくくなる。法律が変わっていても気づかないかもしれない。手順がいつの間にかずれていても気づかないかもしれない。お客様に対して誠実であろうとしていても、知らないところで誠実さを欠いてしまっていることがある。そこに、外から見てくれる仕組みがある。
それは管理ではなかった。監視でもなかった。一緒に良くしていくための、設計だった。
田中の問いが頭に戻ってきた。「なんでそんなことしてくれるんだろうね」。
今なら、少し答えられる気がした。それがなければ、会社は行きたいところに行けないから。遼一人が知らないままでいることが、巡り巡って、お客様に迷惑をかけることになるから。だから教えに来てくれた。罰則のためではなく、前に進むために。
この会社が目指しているのは、お客様の資産を長く守ることだ。10年後も20年後も、誠実に関わり続けることだ。その目標に向かって進み続けるためには、内側が誠実に保たれていなければならない。誠実さは、気持ちの問題だけではない。仕組みの問題でもある。
遼はスマートフォンを置いて天井を見上げた。昨日の夜も同じ天井を見ていたのに、今日は違う気持ちで見ていた。昨日は不安で見ていた。今日は、すこし納得して見ていた。

場面⑤ 仕組みがある場所で働くということ
翌朝、遼は昨日より少し早く出社した。
デスクに座って、書類を広げる前に、昨日教えてもらった記載順序をもう一度確認した。メモを開いて、手順を追った。これで合っている。次からはこうする。
田中が出社してきた。遼は「昨日の話なんだけど」と切り出した。
「健康診断みたいなものだと思う」と言ってみた。「体の調子が悪くても気づかないことってあるじゃん。それを早めに教えてくれる仕組み、みたいな」
田中は少し考えてから「あー、なんかわかる気がする」と言った。「確かに自分じゃ気づかないことって、あるよな」
「昨日まで怖いと思ってたんだけど」と遼は続けた。「話してみたら全然違って。なんか、一緒に良くしていこう、みたいな感じだった」
田中は「へえ」と言って、少し考えた。「それ、なんか営業と一緒じゃない。お客様のこと、一緒に考えていく、みたいな」
遼は少し驚いた。そうかもしれない、と思った。お客様に対してやろうとしていることが、社内でも同じように設計されている。外に向けている誠実さと、内側の仕組みが、同じ方向を向いている。
うまく伝わったかどうかはわからなかった。でも遼には、昨日よりすこし言葉があった。
この会社には、気づかせてくれる仕組みがある。業務に集中しているほど見えにくくなることを、外から見て教えてくれる人たちがいる。それは罰則でも管理でもなく、前に進むための設計だ。
仕組みがある場所で働くということは、一人で全部わかっていなくていい、ということでもある。知らなかったことは、知ればいい。気づかなかったことは、教えてもらえばいい。そうやって、一人では見えなかった景色が、少しずつ広がっていく。
お客様の資産を長く守ることが、この会社の仕事だ。その仕事を誠実に続けるために、内側を誠実に保つ仕組みがある。遼はそのことを、昨日初めて、自分の言葉で理解した気がした。
窓の外に朝の光が差し込んでいた。遼は書類を手に取った。同じ書類なのに、昨日と少し違って見えた。何が変わったのかは、うまく言葉にできない。でも確かに、何かが変わっていた。
