「青を、選んだ日。」
港の街に、設計士の誓いが立つまで
完成した建物の前に立つとき、設計士は何を見ているのか。仕上げの美しさか。施工の精度か。あるいは、決断の痕跡か。これは、一本の縦ラインの色をめぐる、小さな選択の話だ。その選択が、30年後もそこに「在り続ける」という話でもある。

夜 ——完成
「あの青」が、街に浮かびあがっている
桐島 遥が完成した建物を夜に見に来たのは、引き渡しから数日後のことだった。
用事があったわけではない。通り道でもない。ただ、見ておきたかった。昼間とは違う顔を、自分の目で確かめたかった。
神戸の街灯の下、アバンセ湊の外観が夜空に浮かびあがっていた。コンクリートの白いファサードを、縦に走るコバルトブルーのライン。電球色のエントランスが、建物の足元をやわらかく照らしていた。港の方から、潮の匂いがした。
「あの青がいい」
社員投票のコメントに、そういう声があったと聞いた。遥は少しの間、その場に立ったまま、建物を見上げた。
30年後、この青はどうなっているだろう。

回想 ——誓い
青を選ぶたびに、青が消えた
その建物が完成するまでの話をするなら、まず「失敗」の話をしなければならない。
遥が設計の現場に入って10年以上が経つ。その間に、青をテーマにした設計を何度かやった。水辺を意識した物件、海が見える立地の物件。「青」は、水や港を連想させる設計テーマとして使いやすい色だ。
でも毎回、竣工後に同じことが起きた。
青に見えない。
電球色の照明が入ると、彩度が下がる。自然光の当たり方で、影の部分は黒ずんで見える。「青」として選んだはずの色が、実際に建物になると別の色になっていた。
「次にやる時は、絶対に濃い青にしてやる」
それが、遥の心の中に残った誓いだった。設計士にとって、竣工後に自分の判断を検証することは珍しくない。失敗が積み重なると、次の判断の根拠になる。遥の「青への誓い」も、そういう種類の蓄積だった。

設計 ——神戸
神戸で、海をやろう
アバンセ湊の依頼が来た時、遥は直感した。これが、その機会だ、と。
神戸で、これだけ大きな物件を手がけるのは初めてだった。地上11階建て、200戸超。会社としても、自社設計の物件の中では最大規模に近い。
「神戸らしさを前に出したい」
遥は最初からそう思っていた。神戸という言葉から自分が最初に想起するもの——海、港、開港の歴史、異国情緒。レンガとアイアン、洋館の窓、坂の上から見える水平線。その中で設計のテーマになりうるものを考えた時、答えはすぐに出た。
水。そして、青。
この青は今度こそ逃がさない。そのための条件は、もう分かっていた。彩度を落とさないこと。中途半端な青は、黒に変わる。青として見せたいなら、一番鮮やかな青でなければならない。
問題は、「一番鮮やかな青」を採用するには、相応の覚悟が必要だということだった。

選択 ——葛藤
「これは……さすがに、派手すぎるか」
実施設計の段階で、上長の野村 昌子が外壁タイルの候補をいくつか並べて見せてくれた。
「どれがいい? 遠慮しなくていいから」
野村はそう言った。遥は候補を一通り見て、言った。
「もっと鮮やかなものは、ないですか」
少し間があった。野村が追加の候補を出してきた。最も彩度の高い、深いコバルトブルー。
遥はそれを見た瞬間、思ったことがある。「これだ」。でも次の瞬間、思ったことがある。「さすがに派手すぎるか」。
社内でも、意見は割れた。設計部内でも候補を並べて議論したが、最も鮮やかな青には、やはり抵抗感があった。「やったことがない色だ」「リスクがある」「もう一段落ち着かせた方が」。
遥は自分の判断を整理しようとした。なぜこの色でなければならないか。「好き」だからではない。論理がある。自然光の下でも、電球色の照明の中でも、「青として見える」ためには、この彩度が必要だ。少しでも落としたら、また黒になる。この建物が神戸の夜に浮かびあがる時、「あの青い建物」として記憶されるためには、これ以外の選択はない。
でも、それを言葉で説明しながら、遥は内心では揺れていた。一度でも建ててしまえば、それはそこに30年以上残る。自分の判断が街に刻まれる。「失敗したくない」という気持ちは、設計士が常に抱えているものだが、この物件では特に重かった。

承認 ——一言
「やってみよう」
野村は遥の説明を、最後まで聞いた。
彩度の話も、面積効果の話も、電球色の影響の話も。遥が自分の中で積み上げてきた、「この色でなければならない理由」を、全部。
そして野村は言った。
「やってみよう」
それだけだった。許可というより、承認だった。設計担当者がやりたいことをちゃんと持っているなら、全力でサポートする——野村の言葉には、そういう意味が込められていた。
着工し、工事が進み、タイルが張られていく過程で、遥は何度か現場を訪れた。縦ラインに青が入るたびに、「これでよかったのか」という気持ちと「これしかなかった」という気持ちが、交互に来た。判断した後も、それが正しかったかどうかを問い続ける。設計士の時間は、いつもそういうものだ。

総会 ——投票発表
名前が、呼ばれた
社員総会の会場は、普段とは違う空気が流れていた。
スクリーンに、グッドデザイン賞のノミネート物件の映像が順に映し出される。会場の照明がやや落とされ、スポットライトが壇上を照らしていた。BGMが低く流れていた。
遥は、テーブルの端の方に座っていた。
隣に辻さんの物件が並んでいた。斜めのラインを使った外観で、遥からみても「かっこいい」と思う作品だった。エントリー物件を見回した時、正直なところ「あれには勝てないな」と思った。
アナウンスが始まった。会場全体が静まり返った。誰かがグラスを置く音がした。
「グッドデザイン賞、第1位——」
MCの声が、会場に響いた。遥は、その瞬間、手元のプログラムを見ていた。
「——アバンセ湊、設計担当 桐島 遥さん」
一秒、止まった。
周囲が動いた。拍手が起きた。隣に座っていた同僚が振り返った。でも遥には、その全てが少し遠く聞こえた。
「え」と、声に出さずに思った。
立ち上がらなければいけない。分かっていた。体は動いた。でも頭の中で、「信じられない」という言葉だけが、ぐるぐるしていた。野村さんの方を一瞬見た。野村さんは笑顔で拍手していた。その顔を見た瞬間、遥の目の奥が少し熱くなった。
壇上に向かいながら、遥は思った。
野村さんが、「やってみよう」と言ってくれたから、この青がある。
夜、もう一度 ——30年後
「この青は、これから深くなっていく」
建物の前に立ちながら、遥は今の青を確認していた。
今が一番鮮やかな状態だ。これから経年していく。日光を浴びて、潮風にさらされて、少しずつ変化していく。それでいい、と遥は思っていた。むしろそちらの方が楽しみだ、とさえ思っていた。今の彩度が落ちていく分、深みが出る。10年後、20年後に、この建物の前を通る人が「あの青い建物」と思ってくれるなら、それで十分だ。
投資用マンションというのは、オーナーにとって資産だ。ローンを支払い終えるまでの年月を、この建物は居住者とともに過ごす。その間、外観が「あの建物」と呼ばれ続けること、エントランスが居住者にとって「帰ってきた」と感じる場所であり続けること——設計の仕事は、完成した日に終わるのではなく、居住者がここに住み続ける間、ずっと続いている。
起点でありながら、終点でもある。
ふと、入社した頃のことを思い出した。設計部門長だった人が、まだ右も左も分からなかった遥に言った言葉がある。
「信頼の積み重ねですよね、この仕事って。一個一個の判断が、何年後かに必ず返ってくる。いい意味でも、悪い意味でも」
あの頃は、よく分からなかった。今なら、少し分かる気がする。
コバルトブルーの縦ラインが、神戸の夜に静かに溶け込んでいた。潮の匂いがした。この青が、港の街の記憶になる日が来るかもしれない。それが30年後か、50年後かは、まだわからない。でも遥には、その日を待つだけの理由が、ちゃんとあった。
