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不動産が好きだから、
伝えられる価値がある。

# 17

価値を、動かし続ける

資産価値は、"運用"で決まる。

Vol. 01

誰かの正解が、誰かの不満になる

一つの判断が、二つの感情を生む。

不動産は、完成した瞬間に価値が決まるわけではない。そこに人が住み、時間が積み重なっていく中で、価値は静かに動き続けている。その”動き”の最前線に立つのが、賃貸管理という仕事だ。誰かにとっての正解が、誰かにとっての不満になる。そんな矛盾と、来る日も来る日も向き合い続ける、ある一日の物語。

朝 ― 数字の向こう側にあるもの

上げられる余地は、たしかにある。

退去の連絡が入ったのは、朝一番だった。電話を切ってすぐ、相沢はデスクの管理システムを開き、対象の部屋番号を検索する。ある物件Aにおける次の入居者募集に向けて、まずはオーナーと家賃の見直しから動き出さなければならない。

退去の理由は、転勤だという。特にトラブルがあったわけではない。むしろ、これまで丁寧に住んでもらえていた部屋だった。そうした部屋ほど、次にどう募集をかけるかが、その後の資産価値を左右する。相沢は、退去立会いの予定を確認しながら、頭の中で今後のスケジュールを組み立て始めた。

周辺の相場を確認し、この数年の推移をグラフに並べてみる。似た間取り、似た築年数の物件を三件、四件と拾い上げていく。並べた数字を眺めながら、相沢は小さくうなずいた。上げられる余地は、たしかにある。

数字の上では、そう判断できる。けれど、パソコンの画面を見つめながら、相沢の手は少しだけ止まっていた。この金額を、次に住む誰かは、どう受け止めるだろうか。

窓の外では、朝の光がオフィスの床に長い影を落としている。隣のデスクでは、別の担当者が入居者からの電話に対応している声が聞こえる。今日も、いつも通りの一日が始まっている。

相沢がこの仕事に就いてから、何度も感じてきたことがある。数字は、嘘をつかない。だが、数字だけでは、人の気持ちは動かせない。周辺相場という客観的な材料は、交渉の土台にはなる。それでも、最後にその金額を受け入れるかどうかを決めるのは、生身の人間だ。

オーナーにとっては、当然の判断だ。資産としての価値を、きちんと維持していく。それも相沢の仕事のひとつだ。だが、家賃が上がるという事実の向こう側には、必ず誰かの生活がある。誰かにとっての正解は、誰かにとっての不満になる。そのことを、相沢は日々の仕事の中で、繰り返し思い知らされてきた。

入社した頃は、この矛盾に戸惑うことも多かった。オーナーの利益を最大化することが正しいのか、それとも入居者の生活を守ることが正しいのか。どちらか一方を選べば、答えは簡単だ。しかし現実には、そのどちらも大切にしなければならない。相沢は、その狭間に立ち続けることこそが、自分の仕事の本質なのだと、少しずつ理解するようになっていた。

提案書を書き直す。

同じ朝、相沢のもとにはもう一件、別の対応が待っていた。契約更新の時期を迎える物件Bで、長く住み続けている入居者への家賃改定の提案だった。退去のタイミングとは違い、こちらは今もそこで暮らしている人に、直接金額の見直しを伝えなければならない。

一度書き上げた提案書を、相沢はもう一度読み返す。金額の根拠、周辺相場の資料、これまでの入居期間。数字だけを見れば、間違ってはいない。それでも、何かが足りない気がした。

これまで何度も、こうした更新時の提案書を作ってきた。そのたびに、相手がどう受け止めるかを想像しながら、言葉を選んできた。今回も同じだ。ただ数字を並べるだけでは、長く住んでくれている人には、なおさら伝わらない。

相沢は、周辺物件の資料をもう一枚だけ足すことにした。数字だけでなく、「なぜこの金額なのか」が伝わるように。設備の状態、周辺の環境の変化、この一年で起きたこと。それらを一枚の資料に落とし込みながら、相沢は自分に言い聞かせる。正解を押しつけるのではなく、納得してもらうための一枚を作るのだ、と。

以前、別の物件で担当した更新交渉のことを、相沢はふと思い出していた。あのときも、今回と同じように周辺相場の資料を用意し、粘り強く入居者へ説明を重ねた。最初は難色を示していた入居者も、最終的には「納得できる説明だった」と言ってくれた。あの一言が、今でも相沢の支えになっている。今回も、同じように向き合うしかない。答えを急がず、丁寧に、一つずつ。

昼 ― 二つの言い分のあいだで

静かな声の、向こう側。

同じ日の午後、別の連絡が入った。物件Cの隣の部屋の生活音についての苦情だった。電話を取った瞬間、相沢は相手の声のトーンから、事態の深刻さを感じ取る。

生活音の苦情は、特に頻度が高い相談のひとつだ。足音、テレビの音、話し声。原因は様々だが、共通しているのは、我慢を重ねた末に連絡してくる人が多いということだった。だからこそ、電話口の第一声には、いつも以上に注意を払う必要がある。

電話の向こうの声は、静かだけれど、明らかに苛立っていた。「もう何度目かわからない」という言葉に、これまでの積み重なった不満がにじんでいる。相沢はまず、最後まで話を聞く。相手が言いたいことをすべて受け止めてから、丁寧に相槌を打ちながら、電話を切る。

そして今度は、苦情を受けた側の入居者にも、同じように話を聞きに行く。電話越しに聞こえてくるのは、戸惑いと、少しの不満だった。「そんなに響いているとは思わなかった」という声には、悪意はない。むしろ、知らなかったことへの驚きの方が大きいようだった。

どちらの言い分にも、理はある。どちらかを完全に正しいとすることはできない。相沢にできるのは、両者の間に立ち、少しずつでも折り合える点を探ることだけだった。

こうした対応は、月に何度も繰り返される。慣れることはあっても、軽く扱っていいものは一つもない。相沢は、電話の内容をメモに残しながら、これまでの類似案件を頭の中で振り返る。同じような状況でも、解決の糸口はケースごとに違う。だからこそ、まず相手の話をきちんと聞くことから始めるしかない。

「間に入る」ということ。

「うるさい」と言う人にも、「そんなつもりはなかった」と言う人にも、それぞれの生活がある。相沢は、どちらの側にも立たず、ただ間に立ち続ける。答えを出すことより、双方が少しだけ歩み寄れる場所を見つけることの方が、この仕事では大切だと感じている。

生活時間帯の違い、家具の配置、床材の特性。原因はひとつではないことが多い。相沢は、双方に共通して受け入れられそうな対応策をいくつか提案しながら、少しずつ言葉を重ねていく。焦らず、急がず、それでも前に進める。

電話を切った後、相沢はしばらく机に向かったまま、何も書けずにいた。対応記録を残そうとキーボードに手を置いても、言葉がすぐには出てこない。今日もまた、正解のない判断を重ねている。窓の外はもう、昼を過ぎている。

昼食をとる時間も惜しんで、相沢は対応の続きを考える。今日のうちに、双方へもう一度連絡を入れておいた方がいい。放っておけば、小さな不満は大きな不満に育ってしまう。相沢は、コンビニで買ったおにぎりを片手に、午後の予定を組み直し始めた。

夕方 ― 箱と、そこに住む人と

ふと漏れた、ひとこと。

昼の対応を終え、相沢が一息ついていると、隣のデスクで三浦がふと漏らした。三浦は相沢より少し先輩で、いくつもの物件を見てきたベテランだ。

「箱を整えるのは、建物管理の仕事だからな」

相沢が顔を上げると、三浦は続けた。

「でも、そこに住み続けたいと思ってもらえるかどうかは、俺たちの日々の対応次第だ」

その言葉には、これまでの経験に裏打ちされた重みがあった。相沢は、その言葉を聞きながら、手元の資料にもう一度目を落とす。整えられた建物があって、そこに人が住み続ける。その間をつなぐのが、自分たちの仕事なのだと、改めて思う。誰かが整えたものを、自分たちが動かし続けている。そのつながりを、相沢はこれまであまり意識してこなかった。

三浦は続けて、以前担当した物件の話をしてくれた。竣工から数年が経ち、設備の更新時期を迎えたその物件で、丁寧な運用の積み重ねがあったからこそ、入居率を落とさずに済んだという。「建てた人の想いを、日々の対応でつないでいくのが俺たちの仕事だ」。三浦のその言葉に、相沢は静かにうなずいた。

動かし続ける、という仕事。

建物が完成した時点で、価値のすべてが決まるわけではない。そこから先、日々どう運用されるかによって、価値は変わり続ける。相沢たちの仕事は、その”変わり続ける”部分を支えることだ。止まってしまえば、価値もまた止まってしまう。

三浦の言葉を反芻しながら、相沢は今日対応した二つの案件を思い返す。家賃改定の提案も、クレーム対応も、どちらも「箱」の中で起きている「動き」そのものだ。建物という器を、人が住み続けたいと思える場所であり続けさせること。それが、自分たちの役割なのだと、相沢は改めて実感していた。

窓の外の空が、少しずつ茜色に変わっていく。今日という一日も、無数の小さな判断の積み重ねでできていた。どの判断も、誰かにとっての正解であり、同時に誰かにとっての不満になり得る。それでも、その両方を見据えながら、少しでも良い着地点を探し続けること。それが、賃貸管理という仕事なのだと、相沢は改めて思う。

夜 ― 答えを出し切らないまま

資料を、もう一度見直す。

夕方、相沢は契約更新を迎える物件Bの次の入居者への連絡を再開した。家賃改定の提案書を送る前に、もう一度だけ、周辺相場の資料を見直す。数字に間違いはないか。伝え方に、押しつけがましさはないか。何度も読み返しながら、言葉を整えていく。

オフィスの照明が、少しずつオレンジ色を帯びてくる。今日も一日が、終わりに近づいている。相沢は、送信ボタンを押す前に、もう一度だけ深呼吸をした。

送った提案書に、すぐに返事が来るとは限らない。数日、あるいは数週間、返答を待つこともある。その間、相沢にできることは、いつでも質問に答えられるように準備をしておくことだけだ。結果がどうなるかは、まだわからない。それでも、今できる最善は尽くした。相沢は、そう自分に言い聞かせる。

これで、納得してもらえるだろうか。

次の一歩は、まだ見えない。

答えは、まだわからない。それでも、明日もまた、同じような判断が待っている。誰かの正解が、誰かの不満になる。その矛盾を抱えたまま、相沢は今日も、次の一歩を踏み出そうとしている。

パソコンを閉じ、相沢はオフィスを見渡す。三浦をはじめ、同じように今日という一日と向き合った同僚たちが、それぞれのデスクで最後の作業を続けている。誰も、完璧な正解にはたどり着けていない。それでも、明日も同じように、誰かの生活と向き合い続ける。それが、賃貸管理という仕事なのだと、相沢は静かに思う。

帰り支度をしながら、相沢はふと、入社したばかりの頃を思い出していた。あの頃は、正解のない仕事があることに、戸惑いばかりを感じていた。今はもう、その戸惑いは消えている。代わりにあるのは、答えのない問いに、それでも向き合い続けるという静かな覚悟だ。

エレベーターに向かう途中、三浦とすれ違う。「お疲れ様」と声をかけ合いながら、相沢は今日一日の出来事を、もう一度頭の中で振り返った。家賃改定の提案も、クレーム対応も、今日という一日で完結するものではない。明日も、明後日も、同じように誰かの生活と向き合いながら、少しずつ資産価値を動かし続けていく。それが、この仕事の続きなのだと、相沢は改めて思いながらオフィスを後にした。

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